AKANET3号

シリーズ

その3

軍用路線に変貌した中央線

「新宿」から「東京」までの延伸の経緯

 前回は中央線(甲武鉄道)の、新宿−八王子間の建設の経

緯についてお話しいたしました。土木技術の未熟な時代にあ

って、免許取得後わずか1年余りで建設を完了し、開業させ

た努力には敬服せざるを得ません。今回は引き続き中央線の

うち、新宿−東京まで延伸される経緯についてお話しいたし

ます。

 新宿−飯田町(現飯田橋とは若干位置が異なる)間の調査

・測量が開始されたのは、新宿−八王子間開業3年後の18

90年(明治23)からですが、現代の我々からすれば思い

もかけない難問が続出し、その解決に苦労した模様です。

 主な難問の第一は、当時新宿御苑は天皇の鴨猟の御料地だ

ったので、列車の轟音に驚き鴨が飛来しなくなりはしないか

との危惧でした。第二は、赤坂御所(現迎賓館)の敷地の一

部とはいえ、トンネルを掘ることは皇室に対して不敬ではな

いかとの宮内庁からのクレームでした。また陸軍省からは、

青山練兵場脇を通過するのは軍事機密保持上問題があるとの

ことでした。さらに沿線住民からは、外濠沿いの千代の松並

木の景観を損ねると反対が出るなど、問題解決と用地取得に

4年余りかかりました。

 難問を乗り越え、1894年(明治27)、とりあえず新

宿−牛込(現四谷)間が、続いて翌年牛込−飯田町間が完工

し、飯田町−八王子間が直通運転されることとなりました。

 完成の直前に日清戦争が勃発するなど、わずかの間に我が

国を取りまく国際情勢は急激に変化してきました。このため

かつて路線計画にクレームをつけていた陸軍からの申し入れ

で、急遽青山練兵場に軍用停車場(現信濃町)を設けること

となりました。

 時代は少し逆戻りしますが、江戸から東京へ激動する首都

計画の中で、武家屋敷の用途転用の問題を見落としてはなり

ません。原則として大名屋敷は明治政府機関用地か軍用施設

へ、旗本屋敷は官員の住宅とされました。

 例えば本村町の尾張藩上屋敷は、陸軍士官学校・陸軍中央

幼年学校用地と決まりました。これが三島由紀夫の割腹自殺

で有名になった現在の市ヶ谷陸上自衛隊敷地です。

 また、13万坪の広大な敷地と江戸を代表する豪華さを誇

った戸山の尾張藩下屋敷は、陸軍戸山学校用地となりました

現在の都営戸山住宅団地から早稲田大学理工学部あたり一帯

です。

 さらに、現在の文京区役所−後楽園遊園地−都立小石川後

楽園−飯田橋公共職業安定所あたり一帯の広大な水戸藩上屋

敷は、陸軍砲兵工廠として大砲から小銃まで製造する一大軍

需工場となったのです。ここで使用される膨大な資材は、敷

地の南側に接する神田川と新たに開設された甲武鉄道飯田町

駅から搬入されました。

 このようにして、当初一般貨客線として計画された甲武鉄

道は一気に軍用路線としての性格を帯びることとなりました

 藩邸の用途変更が、当時の東京の都市計画に重要な影響を

与えたわけですが、戦後もう一度これらの軍用施設と華族の

邸宅の用途変更が、東京の都市計画に影響を与えることとな

ります。

 一方、この路線を都市工学的見地から考察すると、郊外線

の市街地乗り入れの嚆矢として画期的なものと評価されます

 元来我が国の鉄道計画は英国人の技術指導によって進めら

れてきたことは既にお話しいたしました。ヨーロッパの郊外

路線の終着駅は、すべて都心内部に直接乗り入れることを避

けております。これには国境を越えて他国人がいきなり都心

に進入することを防ぐというヨーロッパ特有の理由があるわ

けですが、甲武鉄道延伸計画について英国人技師と日本人技

師との間にかなりの激論があった模様です。

 結局、甲武鉄道は従来のヨーロッパ指導型の路線計画から

一歩踏み出して、我が国独自のアイデアによる路線として完

成することとなりました。

 別の機会に詳しくご説明しますが、山手線の環状化とター

ミナル駅から髭状に伸びる郊外電車は世界に類を見ないユニ

ークなアイデアで、戦後の超過密都市TOKYOを支えた交

通体系の根幹をなすものです。

 少し脱線しましたが、めでたく開業したものの、運賃の設

定があまりにも高価すぎて、乗客数はいま一つの状態が10

年余り続きました。社長交代による大衆運賃制の採用と、飯

田町−中野間の電化に成功し、利用客は急増することとなり

ました。

 路線はさらに飯田町−お茶の水−万世橋(廃止)−呉服橋

(現東京)間が完工し、現在の中央線のフレームがやっと出

来上がりました。

 次回は、東京駅完成までの様々な出来事についてお話しい

たします。

宇田川 達生

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