AKANET5号

連載D

   エッセイ

私の好きな街

ポケットのある街  澤田 正博

 夏の昼下がり、小柄な婆様はいつものようにリヤカーを引

いて小道を歩いている。積んでいるのは朝市の残りの野菜や

季節の果物、仏花だ。道々会釈をしながらいつもの場所にさ

しかかると、世間話をしていた女達に声をかける。

「ペエッコ、のこったァ。モッデガネェガァー」

「ンマァー。カシェーグゴドォー」

 一人、二人と寄ってきては品定めをする。ひとりが手ごろ

な西瓜をとりあげると、紐でくくっておもむろに傍らの井戸

へ入れた。井戸の中で二つの西瓜がユラリ、と水面に揺れた

 ここは共同水場、いわゆる「井戸端」である。ピッチリと

建ち並ぶ通りの家並みにポカッと穴をあけたようにそれがあ

る。「湧き水」と呼ぶ人もいる。見ると勢いは弱々しく水面

に動きがない。動きがない分、水の澄み具合がさらに深く感

じられる。

 表通りから井戸を見ると、向こうに裏通りが見える。井戸

は表と裏の通りを結ぶ2本の石畳の路地に挟まれる格好で配

列されている。裏通り側を上流として、路地の途中から上段

〜中の上段〜中の下段〜下段と、四つの矩形の石造りの水槽

を経て表通りの水路へ流れる。井戸と路地の半分を覆うよう

に木造の和小屋組の葺屋根がかけられている。退いて見ると

水面の位置が低いが、ちょうど神社のお清めの水場のような

陰影を持っていて、通りからだとそこに穴が空いた感じに見

える。

 ここへ集まるのはいつもの知れた顔ぶれである。子供らも

寄ってきては遊ぶ。ただ、今でもどんな悪ガキでも決してこ

こを汚したりはしない。

 付近にも同じ様な井戸がいくつかあるのだが、水道が切れ

たせいか涸れてしまい、生きているのは残念ながらここだけ

である。かつては意味を持っていたであろう涸れた水場は、

路地からさえもそっぽを向けられ、今では路地沿いにうずま

る乾いた遺構に過ぎない。

 しかしその中に、葺屋根を取り払って涸れた井戸の水槽に

草花を植えているものがある。その姿を変えて生き生きと路

地に蘇生している。ちょっとしたポケットパークだ。かつて

の水場とは趣は全く異なるが、ささやかな憩いの場としての

存在感が保たれている感じがする。特段の決まりなく勝手な

草花が植えられた花壇は、粗放ではあるけれど小綺麗に人の

手が入れられて、まるで路地から通りへと段々になって笑み

をこぼしているかのようだ。

 かつて共有の水利の場は、生活に密着した重要な場所であ

り大切に扱われていた。水汲みに行くことが、即コミュニケ

ーションであった。水汲みをはじめ、調理、洗濯といった毎

日欠かすことのできない営みの中で人々は出会い、ニュース

を交換し合った。しかし時は経ち、技術が進歩するにつれて

共用の水利は家の中へと移り、戸別給水にとって代わられた

貴重な水を公平に分かつことはできるようになったが、その

陰で何か大切なものが同時に失われてしまったようにも思わ

れる。水とともにその大切な何かまでも家の中へ移すことは

できないのである。

 

 婆様は井戸端が一段落すると、リヤカーを放ったまま路地

に面した家の葺簾をたくしあげ、開け放たれた窓から座敷へ

向かってそれと分かるように声をかけた。気の合うお得意様

なのだろう。濡れ縁に腰掛け、家の者に商いを始める。家の

者は、苦笑いしながら、いつものように相手をする。

「お茶ッコ、飲ンデグガァ」

 この水場での何気ない光景を目にすると、自然と心が和ん

だ気がする。そこでは人々の営みやまちの情景がよく分かる

からなのだろう。

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