AKANET5号

シリーズ

その5

東京駅誕生のいきさつ

通勤用から皇室用へと変貌

 明治も20年近く経過すると、我が国を取り巻く列

強からの外圧も日増しに強まり、凄まじいものとなっ

ていました。内政も維新直後のような英雄の時代は終

わり、諸省の利害が国政の至る所で激突するようにな

っていました。このような中で、実現間近に見えた「

市区改正計画」は思いがけぬ外務省からの猛烈な横槍

に遭遇し、棚上げされることとなります。

 欧米列強との不平等条約改正交渉に当たっていた外

務省は、我が国も西洋諸国並の官庁街を持つことによ

って文明国として対等に扱わせ、なめられ続ける交渉

を少しでも盛り返したいと焦っていました。外務郷井

上馨を中心に、洋風化した諸官庁を日比谷に集中して

建設する「官庁集中計画を押し立ててきました。その

計画案立案のため招聘されたのがドイツ人建築家エン

ディとベックマンでした。来日したベックマンは、壮

麗なバロックの「官庁集中計画」を短期間のうちにま

とめ、いきなり天覧に供してしまいました。

官庁集中計画ベックマン案(出典:「明治の東京計画」

 この案によると、市内貫通鉄道は「市区改正計画」

案より南側に寄せられ、中央停車場駅は、完成したば

かりの銀座煉瓦街を潰して建設されることとなってい

ます。そして駅前には直径300mの円形公園が配置

され、この壮麗な案の記念建造物の一つとして計画さ

れていました。国内統治を任とする内務省と、対外交

渉を使命とする外務省との埋めがたい溝が表面化した

出来事でした。

 しかし休眠に入ってから2年後、井上を全権として

現在の東京駅全景

繰り返された条約改正交渉は談判決裂し井上は失脚。

政治の潮は突如変わり、「市区改正計画」は再び陽の

目をみることとなりました。明治23年(1890)

いよいよ「市内貫通鉄道」は建設されることとなりま

した。事業主体は新橋から中央停車場までの区間は官

設、上野から中央停車場までは日本鉄道株式会社によ

るものでした。敷設認可間もなく、日清戦争勃発によ

って中断するなどさまざまなアクシデントを経て用地

買収が終わり、工事に着手したのは明治33年のこと

です。この過程で、新たに駅前から皇居に向かって走

る大通りが開設され中央停車場に皇室のための駅とし

ての性格が付け加えられることとなりました。つまり

当初の官庁街あるいはビジネス街への実務的用途から

皇室による帝都の駅へと時代の流れを受けて変貌して

いったのです。

 最近になって分かったことですが、東京駅の基本構

想はドイツ人のバルツアーによるもので皇居側を駅の

正面とし、当時舟運の盛んだった外堀側(八重洲側)

には貨物のヤードを配置するものでした。八重洲口が

できたのは太平洋戦争後のことで、外堀が埋め立てら

れて八重洲民衆駅(大丸デパート)が完成、品川に移

転したヤード跡に東海道新幹線が乗り入れました。そ

れはさておいて、この基本構想のもとに駅舎の設計は

当時の建築界にあって並ぶ者のいない第一人者−永年

の工科大学(東大)学長の要職を去ったばかりの辰野

金吾−に白羽の矢が立ちました。彼は常日頃「建築家

として生まれたからには、やってみたい仕事が三つあ

る。それは日銀と東京駅と国会だ」と語っていたと伝

えられますが、日銀に続いて東京駅も現実のものとな

りました。

 よく東京駅はアムステルダム駅を手本にした等と言

われますが、これはデザイン的にも史実の上からも全

くの虚報です。東京駅のデザインは、19世紀に英国

で流行ったビクトリアン・スタイルの「ルネッサンス

様式」と呼ばれる様式でまとめられています。完成時

は鉄骨煉瓦造の3階建で関東大震災にも無被害でした

が、太平洋戦争時の空襲によって焼失し特徴的な丸み

がかった銅板屋根から現在の角張った屋根の2階建に

改造されてしまいました。こうして、大正3年12月

中央停車場駅は竣工し、「東京駅」と命名されました

30年に亘る市区改正計画の最後を飾る事業がやっと

終わりました。

(宇田川達生)

竣工時の東京駅

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