AKANET創刊号

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山手線が生まれた理由

「山手線は日本のシルクロードだった」

 「まーるい緑の山手線・まん中通るは中央線....」 毎日何気

なく乗っている山手線はいつどんな目的で建設されたのでしょうか?

今回はその秘密に迫ってみたいと思います。

 江戸時代の古い体制が終り、日本は世界に目を向ける新しい時代に

いきなり突入する事になりました。急ピッチで西欧諸国に追いつくた

めにはえどうしたら良いのか。「富国強兵」と「中央集権統一国家の

確立」をこの国の二大政策の柱とし、懸命な努力が開始されたのでし

た。

 強兵するためには、まず何とかして国を富ませなければなりません

もともと天然資源が乏しく、おまけにあてにしていた江戸城の御金蔵

はあけてみれば空っぽでした。それこそ住専処理どころの話ではあり

ません。では一体どうしたのでしょうか。明治政府は養蚕産業を外貨

獲得の花形産業として全力投球で育成しました。この重点政策は政府

の期待通りに順調に発展しました。

 しかし当時までの輸送手段はといえば、馬や牛で要所要所に集荷し

そこからは船による河川路で江戸に運ぶ方法しかなかったのです。

従来の輸送手段では運ぶ事の出来る量に限界がありました。そこで大

量輸送手段として登場したのが、鉄道建設というイギリスからの新技

術の導入でした。

 明治五年に新橋〜横浜間が、明治十六年に上野〜熊谷間が開通し、

翌年高崎まで延伸されました。そして明治十八年いよいよ赤羽〜汐止

(品川)間が開通しました。何とこれが今の山手線のルーツだったの

です。もちろん人を運ぶのが目的ではなく群馬県方面から生産された

生糸や絹織物などを運ぶ貨物列車だったのです。

 

歌川広重(3代)「東京名所之内新橋ステンション蒸気車鉄道図」


 このようにして「日本のシルクロード山手線」は完成し、明治

政府の目指す優等生として国策に寄与し、大いに外貨を稼ぎまく

りました。貴重な外貨は消費財の輸入に食われてしまうことはな

く近代軍備のための武器の購入や、工業化のための機械の購入に

あてられました。

 ちなみに開業当初は、赤羽〜板橋〜目白〜新宿〜渋谷〜目黒〜

汐止のたった七駅だったのです。そうです池袋駅が出来たのはず

っと後のことなのです。

 日本で最初に開通した鉄道路線は、有名な新橋〜横浜間でした

なぜこの区間が吾国最初の鉄道なのか、実はこれにも深いわけが

あるのです。

 当時の隅田川は水深が浅く、外国船が直接接岸する事など到底

不可能でした。ではどうしていたかというと、横浜港の海上十里

ほどのところでいったん小船に積み替えて、築地鉄砲洲の東京

海上所(税関)から陸揚げされていました。

 この不便さを解消するために建設されたのが新橋〜横浜間の鉄

道だったのです。文明開化の陰に隠れてしまいました(もしかす

ると意図的に隠したのかもしれませんが)が、本当の目的は旅客

輸送にあったのではなく、大量の貨物輸送にあったのです。

宇田川 達生

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